90年代の出来事、流行、カルチャーがまるごと一冊〈きまぐれ・ナインティーズ〉

90年代の出来事、流行、カルチャーがまるごと一冊〈きまぐれ・ナインティーズ〉

1989 恋するオジさんたち 前夜:〈きまぐれ・ナインティーズ〉より

90年代の出来事、流行、カルチャーがまるごと一冊〈きまぐれ・ナインティーズ〉

東京は渋谷区の恵比寿にあるファッション専門学校、恵比寿服飾アカデミーがエビス・ファッションアカデミーへと校名変更したのは、1990年4月のことである。

そのころの恵比寿には、ガーデンプレイス* もアトレ* もウエスティンホテル* もなかった。

その前年、志村誠二はこの小さなファッション専門学校の改革プロジェクトに深くかかわっていた。

昭和から平成へと時代が大きく変わった1989年という年は、志村誠二にとって思いもよらぬできごとが次々と起こる年でもあった。

天皇の崩御* はあらかじめ予想されたことではあったが、その1日前に突然、次姉が脳幹出血であっさりとこの世を去ってしまった。脳梗塞で倒れて1週間、なんの手当てもほどこすことができないまま、57歳という年齢で逝ってしまったのだ。

そのころ誠二は同じ恵比寿にあるWデザイン研究所という大きなファッション学校で非常勤講師をしていた。ちょうど3年目の契約が切れるころだった。

この5、6年はファッション専門学校がブームに乗っていた時代で、Wは文化服装学院*、東京モード学園* と並んで御三家と称され、大変な発展ぶりを見せていた。

この機をつかんで、新館校舎の増設など一挙にパワーアップを図ったこの学校の代表者であるKは、ファッション業界の知人たちに声をかけ、講師になってくれるよう依頼したのだった。

業界ではそこそこ名が通っているが、一般的にはまったく無名だったファッションライターの誠二も、Kと一度雑誌の座談会でいっしょになったことがあり、名刺を交換していた。その縁で誠二にも講師の声がかかり、誠二は41歳にしてファッション専門学校の正式な先生になったのだ。といってもこの学校は無認可の私塾のようなもので、文部省認可などの正式な専門学校ではなかったが……。

講師になってみると、思いのほか講師料もよく、担当クラスも多く、なによりも講師旅行などの待遇がよくて、これならもっと早く講師になっておけばよかったのに、などと思ったものだった。それと毎日教壇に立って板書するという先生ごっこみたいな仕事が、小さなころから教師を夢見ていた誠二には合っていたのだ。

・・・以上、〈きまぐれ・ナインティーズ〉1989 恋するオジさんたち 前夜 より

続きは『きまぐれ・ナインティーズ』DANSENノベルスデジタル