DANSEN FASHION 哲学 No.124:"クリスタル”は現代の哀しさ(3)

1982年 男子專科 より

自分でノットを結ぶ蝶タイでないと満足できなくて---田中康夫

学生のころは、普段からシャツとセーターなら、そこにネクタイをしてしまうというフォーマルな気分を取り入れた感じが多かったのに、このごろは、ジャンパーにコットン・パンツ、テニス・シューズという格好が多くなりました。

アイク・べーハーのシャツに、ブリティッシュ・カーキのパンツという感じで、家の中でも、ちょっと外へ行く時でも、過ごしています。

編集関係の人と会う時は、そこに、蝶ネクタイ。代官山のロイド・クロージングで売っている蝶ネクタイが気に入っていて、もっぱら、そこのものばかり。

フォーマルなものや、スーツ類は、エルメネジルド・ゼニアのものが多いみたい。

ゼニアのものってのは、イタリアというよりも、ブリティッシュに近いアトモスフィアを持っているので、とてもではないけれど、セルッティやバレンチノの似合わない僕にもしっくり来るみたいです。

アパシー状態から、脱却しつつある今、洋服について、ひとつのことを考えています。

私たちは、洋服を着るという行為の持つ、それ本来の意味よりも、第二義的であったはずの意味合いに重点を移しつつあるみたいです。

寒いから服を着る、裸では危険だから服を着る、服を着るという行為は、本来の意味合いを、満たすためでした。

しかし、そうした目的は誰もが容易に、というよりも、当然のこととして受け入れている今、私たちは、この均質化した世の中のなかで、自分自身の存在を確かめるために、そして、物質的に豊かになればなるほど感じる心の中の空洞を少しでも埋めるために、洋服にこだわるという行為を開始しはじめているみたいです。

着ることも、食べることも、そして、男女の結びつきも、すべてが、それ本来の目的よりも、安心を求めるために行なわなくてはならない社会に、私たちははいりつつあるのです。

・・・了