キング オブ ダンディとの出会い
1860年、ヘンリー・プールにとっても、またサヴィル・ロウにとっても最も重要なカスタマーが訪れる。それがプリンス オブウェールズ、後の"エドワード7世"、通称バーティであった。
バーティがプールの店に来るきっかけは、ある劇をプリンスが観たところ、劇の中身はどうしようもなかったが、俳優が着た衣裳のカットが申し分のないものだったので仕立て屋の名称を尋ねたところ、それがヘンリー・プールだったという。
バーティは子供時代、ヴィクトリア女王に厳しく躾けられた。それは「人生は楽しからざるべきことに耐えて成立するもの」というジェントルマンの思想である。紳士は常に高潔であらねばならないという教育は、いつしか快楽的部分を人前で見せるのは恥ずかしいという気質を育んだ。その反動が、英国独特のダンディを輩出し、アンビバレンスな素晴らしいファッションが誕生する理由ではないだろうか。バーティも女王の躾に反発し、服装フリークで、無類の女好きというダンディ道を突き進んだのである。プールは女性用乗馬服を仕立てる特別室を作り、プリンスの、嗜好の両方を満足させたらしい。
バーティが『キング オブ ダンディ』として活躍したエドワード時代は、フロックコートやモーニングコートがラウンジスーツへ替わる、いわばファッションの過渡期であった。彼はハンティング、テニス、クリケット、ヨット、レーシングなど、あらゆるスポーツを愛したアクティブな男だったから、機能的なラウンジスーツの普及にかなりの面で貢献したといえるだろう。なかでもドイツで流行していたスモーキングジャケットをヒントに、1876年サンドリンガム・パレスで開催されたパーティにおいて、燕尾服のテールをカットしたディナージャケットを披露し、フォーマルウエアに新風を呼び起こした逸話は有名である。
バーティとヘンリー・プールの活躍によって、サヴィル・ロウは活況を呈し、世界中の王室や貴族、富裕層がここで洋服を誂えるようになる。1912年のサヴィル・ロウには、169軒ものマスターテーラーが店を構え、約1500人の職人が働いていたという。
・・・次回更新に続く