DANSEN FASHION 哲学 No.28 赤塚不二夫:ひとときの終末を美しく

男子專科(1972年9月号)より

生活にとけこんだファッション

---と、ここまでが長いイントロ。

いままで書いてきたことは、現在、全部ひっくり返ってしまった!といいたい。

ぼくは「男子専科」にオベッカ使ってこんなことを書くわけではない。

いままでいったことは全部過去のことである。

最近ではトーシロウのぼくの目からみてもカッコイイ、ファッションでやってくる奴は、たいてい秀れた作品をかいている。

ヤボな格好の奴はやっぱりヤボな作品しかかけないでぼやぼやしている。

どうしてなんだろうか?

どうしてなんだろうか?

ぼくは五分程考えてみて、こんな結論を出してみた。

「ファッション時代は終わった!ファッションはそのまま生活となってしまった!」

なんだか自分でいって、自分で意味のわからないようなことを書いている。

つまり「平凡パンチ」が売れなくなって「プレイボーイ」がリードした---という時代になってしまったということだ。

何?またわからなくなった?

つまりこうだ「平凡パンチ」が創刊してから数年、パンチが作りだしたパンチ野郎のイメージは若者にとってあこがれのイメージだったのに、いまではどこかの片田舎のあんちゃんでもパンチ野郎みたいになっているのである。

パンチ編集部は次の時代のNEWパンチ野郎を創造出来ず、その結果「平凡パンチ」はなんの衝撃をも時代に与えることがなくなった。夢のファッションは生活になってしまったのだ。本が売れないのは当たり前だ。

この巨大な資本主義が造りあげる「風景」の中にあって、イカサナイ格好をするということは、クレイがフォスターに日本語で叫んだ一言

「ミニクーイ!!」ということにつきる。

坂口安吾がこうも書いているではないか。

「必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活するかぎり、猿真似を恥じることはないのである。それが真実の生活であるかぎり、猿真似にも独創と同一の優越があろのである」---とね。

・・・次回更新に続く