男子專科(1972年9月号)より
グロテスクなものを美しく着る
ぼくらは色々なものを着るようになったのだ。ぼくの友人が台北で買ってきた中国服を着てぼくはスキーにいった。麦ワラ製で昔の日本軍の戦闘帽のような変な帽子をかぶってラーメンを食べにいく。
去年の夏、ニューヨークへ行った時は、友人のテーラーでバリッとしたスーツを作っていったが、それを全部むこうの友人にやり、帰りは、シマ・パンにバスケットシューズ姿。新宿にいけば、みんな同じような格好をしている。
世界革命浪人の平岡正明もその新宿へ、沖縄で買った、まっ黄色のヘンテコリンにイカスシャツを着て現われる。
生活のための行動中自然とそういった物を買うことになり、ぼくらはそれを着こなしているのだ。
どこそこではやっているからとか、そういうことではないのだ。
素晴らしい着こなしをするということは、その人が生活の中でどんな行動半径を持ち、どんな仕事をしているか、どんな個性とフィーリングを持っているかということと強く結びついているのである。
しかし資本主義社会の中での美しいファッションというものは、今後ますます困難なものになっていくのではなかろうか。
フォーマルなもの、あるいは制服などに残されるのが精一杯であるとぼくは極論しておこう。なぜなら現在、美しいということは、グロテスクということと同じレベルで語られねばならない。
フォーマルなもので完璧なファッションをこなしていくためには、おそらく大変なお金がかかる。
『グロテスクに美しく着こなす』にはそれほどお金がかからない。生活のレベルでやっていけるのだ。ジーパンがファッション化したからもうジーパンはイヤだという人もいるが、それはひねくれた考え方だ。ファッションにしてしまった若者たちの知恵と抵抗に共感をいだく。
グロテスクに美しく着こなすことは安いお金でできると書いた。しかしひとつ間違えばチンドン屋のスタイルとなんら変わらないことになってしまう。
カッコイイ、ファッションの奴はたいてい秀れた作品をかいている---と書いたのはこうした意味でかいたのである。
テレビ局へ行ってみたまえ。チンドン屋がスタジオ中、ヨタヨタ走りまわっている。
安いお金では出来ても安っぽい感覚ではダメだということだ。
これはぼく自身に対しても反省の意味をこめて、ここに書いておくことにする。
・・・次回更新に続く