DANSEN FASHION 哲学 No.141 荒木経惟:知性が恥性を必要とする(3)

男子專科(1983年7月号)より

アタシ自身がひとつのメディアだからファッションも自分の広告だね

ファッションっていうのは、場所や会う人に合わせて装うこと、なんて言ってはいるけれど、その昔、おふくろが日通とまちがえて「車の運転もできないで、よく運送会社に勤められるもんだ」と、言ってた電通にいた時代は、アタシもひどかった。

葬式には真赤なシャツを着ていくし、髪を伸ばして、インド風のアクセサリーをジャラジャラつけ、前衛芸術家風に黒づくめの汚い服も着てたりしたからね。

フリーになってからも、チャップリンのスタイルをまねてみたり、戦争中の日本軍の兵隊服を着て、写真撮ったり、朝日新聞社の編集室に出入りしていたものだったよ。

今考えてみると、若気のいたりというやつで、冷や汗もの。と思いつつ、ときたま発情期みたいに、そんなかっこうがしたくなるときもあるけどね。

”ゴウに入ればゴウに従え”と、ア夕シもだんだん考えが変わってきた。会社なんかの組織の中で、上からスーツ着用のこと、なんてお達しがあれば、それなりにある程度キメていったほうがいいんじゃないかと。ふけてきたねえ、アタシも・・・・・・。

もちろん、若い人が思うように好きなスタイルをやってるのを見ると「やってる、やってる」てなもんで認めちゃうけどね。最近はやりのボロファンョン、あれも考えは好きだよ。知性をあまりさらけ出さず、余裕のあるおしゃれという点ではね。ただ、見た目はあまりいいとは思わない。洋服っていうのは哲学よりも、やっぱり見た目。ここんとこは写真と同じで、内面は映らない。見た目、外ヅラで勝負ってとこ、あるからね。

そうすると、やっぱり、ファッションは対相手、対人間ってことになる。アタシは女の写真を撮るとき、相手に合わせてラブホテルなら、一緒に風呂にも入るし、同じホテルのゆかたも着る。同じ状況にしてはじめて撮影に入る。女の子に大股開きさせて接写、触写するときは、アタシの小さなものもさわらせちゃうしね。ふたりのゲームだという雰囲気を楽しみながら、演じながら撮っている。撮ってるアタシも堂々と演技するわけ。女はすべて女優、写真は私写真、そして仕事は私事なのです。

女の子を撮るとき、スタイリストなんかはいっさい使わない。その子の好きな服装で来いって言う。そうすると、アタシの場合、相手の子は「ウワサによると、すぐ脱がされてしまうかしら」「下着までいっちゃうかな」と思うから、パンティやブラジャーなんかにまで気をつかって考えてきてくれる。アラキはキャミソールが好きだそうだから、じゃあ着ていこう、とか、今まで着たことのない紫のパンティーをつけてきてくれたりとかね。そこに彼女の思想が出てくる。誰かに選んでもらったものじゃ、その思想は表われないからね。

相手に合わせ、かつ自分に合わせる---時流と自流のはざまにあるもの、それがファッションだと思うね。写真と同じですよ。だからアタシは”キワモノ”ってよく言うんだけども。写真で言えば、一方的じゃないように妥協してる部分もある。女陰もそのものズバリをそのまま出さないで黒ベタ貼るとか「すみません」って言ってモデルの毛剃ったり、ヒジョーに忠実な国民なのです。だから半体制っていうんだけど。

ただ、女を撮るについては、服を着てるときよりも、ハダカのときのほうがずっといい表情になる。これは表現の容積、濃度の問題で服に行っていた表現部分が、脱いじゃうと顔にくる。顔の表情しか自分を出すものがなくなるからね。そして、顔は精神的なものでどんどん変わってくる。凝縮された表現が、そこで顔に表われてくるというわけ、だから女はハダカで演じられるのよ。

そういうわけで、撮る対象は、だいたいいつも、ビニ本のモデル嬢とか、マントルでアルバイトしている子が多い。またナイーブさとしたたかさをもった彼女たちが好きなんだね、アタシは。タレントや歌手、女優たちっていうのは事務所で管理されているから、本人はともかく、やっぱりあまりおもしろくない。

そのかわり、アタシはモデルになってくれた女の子を、本人よりいいところが少しでも出るように撮っている。その瞬間、瞬間のいちばんいいところをね。習い性で醜い部分をシャター押しちゃっても、発表しないからね。写真家としてアタシもできてきたよ。

そして、そういう写真を撮るために必要なのは、モデル嬢に対する”いとしの心”これに尽きるね。こ
れはまた、ファッションにも言えること。アタシにとっては、ファッションとは、その時において、その時に会う、いとしの人のためのくどきの要素であり、礼儀であり、気持ちの表現であるわけ。ホント、大事なのは、いとしの心ですよ!!

・・・了