男子專科(1983年7月号)より
パーティーのために装う これは気配りよ 普段着でもいいってもんじゃない
メガネといえば、アタシのまん丸メガネはトレードマークみたいだけど、自分にほナウいナス引のレイバンは似合わない、東条英機や天皇陛下と同じタイプの丸メガネが合うってわかってるのよ。ちゃんと自分を知っているのがエライ!その上で、メガネもTPOに合わせて楽しんじゃう。
場所や目的に応じてメガネを変える---これは服と同じ、ひとつのファッションだからね、当然服装に合わせてメガネを変えるということもあるわけ。今は、10種類くらいのメガネを、そのときどきの状況に合わせて使っている。冠婚葬祭のときはコレ、純文学を書くときはコレ、という具合に、本当は365日分のメガネを引っ持って、毎日、とっ変えてみたいんどけど・・・・・・。メガネで顔を選ぶのは楽しいし、ひとつのおしゃれだもんね。
アタンが最近いつもかけているのは、レンズが濃いグリーン色のヤツ。ビートたけしに言わせると”溶接工”のメガネだって。
だけど、ときどきは、色のついていない、透明のレンズのものもかけちゃう。わざと目を見せて、明るいナショナリズムを訴えようとするわけね。
ところが、これが女性には意外と評判が悪い。目を見せることによって恥性がなくなり本来の知性とやさしさが表われすぎて、いかがわしさがなくなるんだな。女の子のほうが気をつかっちゃう。話の内容もイヤラシイことなんて言っちゃいけない、まじめな話しなけりゃ、と思うらしい。
アタシがこのメガネをかけるのは女陰を見るとき。女陰っていうのはどんな女のものでも潤ってとてもきれいなもの。口びるは口紅をぬるし、乳首だって撮影のときに色をぬったりするからね。そうした手を加えず、自然のままできれいなピンクをしているのは、女の体の中でも女陰くらいなもの。その彼女のきれいなピンクも、グリーンの色つきメガネで見ると、どんな色に見えるかわかるでしょ。これは、彼女たちにとっては、とても失礼なことなのだ。
だから、女陰を見るときは色つきメガネをかけない。これは女性に対する礼儀、礼節とも言うべきものですもの。料理や映画を見るときも同じ。
状況に合わせる、ということを考えるならば、パーティーなどのフォーマルな場では、ちゃんと合った服装をすべきだね。アタシは以前、どういう成り行きか、結婚式の仲人なんでものをやったことがあって、そのときにサンローランのタキシードを伊勢丹の礼服売り場で買って、式にのぞんだのです。ブランド指向じゃないけれど、そのタキシード見ちゃったら、他の礼服が目に入らないんだもの。
着てみると、これがなかなかのもの。「似合うなー」って、自分でもほれぼれ、花婿よりキマッてて目立ったからね。
パーティーっていうと、わざと汚いかっこうをして行く人間がいるけど、アタシはパーティーは普段着で行くものじゃないというのが持論。忙しくない限り、そのために装うっていうのがパーティーだと思っている。人が主役であり花なのだから、華やかでなくっちゃあ。その場所に合わせて、いかにセンスのよさを発揮して自分を目立たせるか、そこなんだよ。
パーティーのために、新しい服をつくる、女性ならばアクセサリーを工夫する、男性なら蝶ネクタイを新しいものに買い変え、ちょっとコロンをふったりとかね。要はおしゃれ心よ。
雑誌の対談のときでも、場所と雰囲気、対談相手に合わせて服を変えるね。フォーマルな場所で、相手がキメてくるとわかれば、こちらもビシッとキメるよ。たとえば、女優と対談ってことになったとする。相手は3時間も前から化粧して、洋服も考えて備えてるわけだから、こっちが汚いジーンズじゃ失礼でしょ。
こちらも相手に合わせてキメれば、相手もノルじゃない。リラックスして話もはずむよね。そういう遊び心は大事だと思うよ。装うってことは、相手あってのこと、一方的なものじゃなくて、互いに気持ちを通わせる、ファッションは対話よ。
そういう意味で、アタシは化粧しない女は好きじゃない。化粧は女の装いの原点だからね。誰かと会うとき、その人物によりよく自分を見せたい、美しく変えたい、そう思う女はいい。ひとりでアパートの部屋に閉じ込もって誰にも会わなくていい時には、化粧なんてしないもの。誰かに会うため、たとえば、アタシと会うために化粧して、服を考えたりするっていうのは、そのくらいアタシを気にしてくれてるわけじゃない。精神がうれしいよ。
だから会うたびに洋服を変えてきてくれる女って好きだね。アタシも、違う服、新しいアクセサリーや髪型の変化なんか、必ず前と変わっているところをほめるからね。いくらよく似合っている服でも、前と同じものを着ていたら「あれ、このあいだもそれ着てたね」なんて、チクリと指摘したりして・・・・・・。
・・・次回更新に続く