「取るに足らぬこと、些細なこと」を英語でトリビア trivia といい、当時のテレビ番組『トリビアの泉』以来、大変な雑学、蘊蓄ブームを巻き起こすようになっているが、ファッションの世界にはこれに類するトリビアがことのほか多く見受けられる。たとえば「腹巻き」は16世紀のヨーロッパで生まれ、日本では明治時代にキモノから洋服に変化したときに帯の代わりに用いられたという。またトートバッグはもともとキャンプ地で水を運ぶために使われていた、というのもこれを知らない人にとっては「目からウロコ」の話となるだろう。ファッションに関するトリビアは語源や発生にまつわる話が多いけれど、それを知っているとつい誰かに自慢したくなるものだ。それこそトリビアのトリビアたるゆえんなのだが、あの女性ファッション誌『JJ』のタイトルが「女性自身」のアルファベット綴りの略からきているって知っていました?
菅原文太も岡田真澄も元はファッションモデルだった
女性のプロ・モデルは1951(昭和26)年に誕生したけれど、男性のそれはどうだったのだろう?手元にあるメンズ・ファッション誌『男子專科第10号』(1953年4月発行)を見てみると、モデルは三船敏郎、大谷友右衛門、伊豆肇、三國連太郎といった方々が務めていらっしゃる。そう、この時代にはプロの男性モデルというのはまったく存在せず、もっぱら俳優たちがその役を担っていたのである。ところが1954(昭和29)年には『男子専科』のライバルとなる『男の服飾読本』(後のメンズクラブ)というファッション誌が創刊されるなど、男のファッションも活況を呈してきた。そうなると男性の職業モデルも必要ということになって、1957(昭和32)年8月に結成されたのが、男だけのモデルクラブ「SOS」(ソサエティ オブ スタイル)だったのだ。そして、当初8人で結成されたモデルの中に、若き日の菅原文太や岡田真澄がいたのである。